万人受けは無理。人の気分を害さないことに過敏になるのをやめた話

内向的で自信がない人の中には、「どう思われるか」ばかり気になって、自由な表現ができない人が多いのではないでしょうか。

でも万人受けは無理ですよね。

今回は「人の気分を害さないことに過敏になるの、やめてみようかな」と思った話を書いてみます。

私も人目や反応を過剰に気にしていました

大阪市の長居植物園で撮影。ススキのような大きな植物の写真です。太陽が輝く青空に向けて、真っ直ぐに何本も伸びています。

私も人の気分を害さないことに過敏になっていた一人です。

特に「エンパスの自分」が見ている世界を、あまり表現してきませんでした。

人の気分を害すると思ってたから。

世の中には「言わなくていいこと」があるのも事実ですし。
私はASD、そこんとこ失敗しがちなのもあるので。

SNSでも「誰の気分も害さないこと」を意識して投稿してたんですが、今日思い切り、それを無視した投稿をしました。

季節の花見が好きなんですが、花は地面に根を張った状態で咲いてるの見るのが一番好きかな。なぜならそれが自然だから。だから直接見に行く。花手水は花が溺れてる。切り花は土がないから苦しそうで、しばらくしたら枯れてなくても気が抜けて造花になる。自分も伸びて息ができる自然な環境を追求しよ。(2023年7月6日)

花手水のくだりは、省略している部分があります。

本当に書きたかったのは「花手水は(首だけになった)花がいっぱい溺れてる」です。

私から見ると、水や養分を吸い上げる根っこや茎とか光合成する葉っぱなどが、全部なくなった状態でまだちょっと生きたまま、溺れているのです。

こんなこと言ったら、美しいと感じている人は明らかに気分を害するでしょう。

でも私には、やっぱりそう見えるんです。

花手水を否定しているのではない

私は花手水が好きな人のことを批判しているのではないです。

花手水をするお寺や植物園の人を糾弾したいのでもありません。

ただ、自分はなるべくストレスがかからない「あるべき姿の自然」を愛でたい人間。

「自分もそういうふうに自然に息ができる状態で暮らそう。
もっとそういう環境にしていかなくちゃ。」

そう思ったんですよね。

心の中にある「本当のこと」を表現していこう

舞子の海岸で、手すりにもたれて海を眺めている私の写真です

先のツイートには、続きがあります。

切り花は、飾ってしばらくしたら見た目きれいなままでも気が抜ける。人間もそういうふうになってる人は多いと思う。私も向いてない環境に適応しようとしすぎてたから、まだ「そうなってない」と言い切れる状態じゃないと思う。地面でのびのび息をして栄養を摂って咲いてる花はやっぱり好きだな。

「全然本当のことを言っていない」ってことは、意外と見ている人にバレてしまうものです。

見た目は枯れていないけど、魂が抜けて造花になってる花よりも…

春は鮮やかに咲き乱れ歌い、
夏は日照りと雨の間で絶望と歓喜を繰り返し、
秋は色づき実を結んだ後で店じまいをし、
冬は種や球根に隠れながら太陽を待ち侘びる。

そんなふうに、生きていたらめぐってくる色々なことを泣いたり喜んだりしながら、感性豊かに生きていけたらなぁと思うんです。

子どものころから「変わってるね。独特だね」と言われてきました。

自分でも「万人受けはできない」と知っていました。

でも、あるとき「誰にもウケなくても、したい表現をしてみよう」と思いました。

それ以来、「稼ぐ・役立つ・読まれる」事は無視して無作為に書き続けるということを、普通の記事と並行してやっています。

劣等感が深い人間は、承認欲求が強いです。
「何か意味があることをすべきだ」という強迫観念があります。

少なくとも私にとっては、「誰の役にも立たないかもしれないものを無意味に生み出し続けること」は、恐ろしいです。

日々、ちょっとした挑戦をしています。